〜10分前〜
MUR「......どこだ、ここは。なんで俺、こんなところに」

気がつくと、俺は公園のベンチに座っていた。日中の陽射しが地面を、空を照らし、暗闇に慣れた俺の目に眩く光る。
気温はそこまで高く無かったが、俺の座るベンチは日当たりが良すぎるようで、陽に晒された肌がじんわりと湿る。服装が白いTシャツであることに初めて感謝した。日陰に移動する元気も、今の俺には無かったからだ。

MUR「身体が、ダルい」

陽射しの暑さよりも、動くことのほうが厳しかった。倦怠感が全身を包み、指先一つ動かすことさえ、今は面倒くさい。
俺は今まで何をしていたのだろう。野獣に外に連れ出されてからの記憶が、まるで無い。が、身体のダルさと引き換えたように、「俺の中のソイツ」が、今は随分とおとなしかった。
ソイツになっている時間が、俺には何よりも苦痛だ。身体を少しでも動かしたら、今の穏やかな、ソイツが静かにしてくれている状態が、また崩れてしまうかも知れない。
ソイツを刺激するのが怖かった俺は、暑さとダルさを受け入れながら、このまましばらく座っていようと決意した。

父「よーしじゃあちょっと速く投げるぞー」

少年「かかってこぉい!」

目の前にはブランコや滑り台といった定番の遊具が置いてあり、そのすぐ近くで10歳と40歳程の親子が、キャッチボールをして遊んでいた。
今は確か、6月の中旬だっただろうか。いや、俺はあの部屋に二週間は篭っていたと、野獣は言っていた。なら今は6月の暮れか、あるいはもう7月に入っているのだろう。そういえばこの公園にも、蝉の鳴き声がどこかから響いていた。
夏の始まりを告げるようなジー......というこの鳴き声は、たしかニイニイゼミだ。

〜〜
娘「ニイニイゼミって、全然ニイニイ鳴いてないよね。ずっとシャワシャワ言ってるだけだし」
MUR「そうだなぁ」
娘「なんでニイニイゼミって言うんだろ。昔の人には、これがニイニイって聴こえてたのかな」
MUR「誰もニイニイって聴こえてないけど、偉い人が勝手に名付けちゃったから、みんな仕方なくそう呼んでいるだけかも知れないぞ」
娘「パパ、今すごい適当なこと言わなかった?」
MUR「......すまん」
娘「伝えるじょーほーは、ちゃんと調べて、正確にしてね。子供は親の言うことを鵜呑みにするしか無いんだから」
MUR「娘は難しいことを言うなぁ。よし分かった!帰ったらパパが調べといてやろう」
娘「うん! よろしく頼むね」
〜〜

親子のキャッチボールをぼんやり眺めながら、娘との何気ない会話を思い出す。

MUR(あれは、何時のことだったか。確か山にカブトムシを探しに行った時、だったよな。それで、今よりもっと暑い日で......えっと......それで.........あれ?)

少年「あっ、くそぉ」
何度目かの往復を経て、息子の方がボールを取り損ねた。跳ねたボールがコロコロと転がっていき、俺の足元で止まった。

MUR(あの時、妻はどこにいたんだ? そもそも、あれは何年前の出来事だっけ? あれ、おかしいな。思い出せない。思い出せない? 思い出せないってことは、それってつまり俺は)

MUR(妻と娘との思い出を、忘れた...ということか?)

少年「すいませーん。おじさーん。そのボール僕のですー。投げてもらっていいですかー?」

MUR(待て、待て、待て。なんでだ、思い出せない。そもそも、娘と遊びに行った場所は、他にどこがあった? 遊園地やピクニックには、絶対いつかは行っているよな)

足元のボールを見つめながら、俺は必死で彼女たちと過ごした日々を思い起こす。少年が俺に声をかけたが、俺は返事をすることも、ボールを投げ返してやることも出来ない。身体のダルさもあったが、それよりも俺はとても、とても静かに......パニックを起こしていたから。

MUR(なんでだ? なんで出てこないんだ? ニイニイゼミの話なんかより、もっとたくさんの思い出があっただろう。例えば、例えば......とにかく、楽しかった思い出が、たくさんあったはずだろう......)

公園に響く蝉の鳴き声が、肌を照りつける太陽の熱が、俺の渇いた焦燥感を逸らせている気がした。動かない身体に反して、心臓は鼓動を加速させ、頭の中で耳鳴りが響く。
思い出そう、思い出そうといくら命令しても、浮かんでくるのは輝いたあの時間ではなかった。脳の力が緩み、脳裏に映し出されたのはむしろ、

鈴木『MURさん、これ夜中腹減んないですか?』
MUR『腹減ったなー』
鈴木『この辺にぃ、美味いラーメン屋の屋台、来てるらしいっすよ』
MUR『行きてえなー』
鈴木『じゃけん夜いきましょうねー』
MUR『おっ、そうだな...あっそうだ、オイ木村!』

浮かび上がる、あの悪夢のような光景。撮影はもう10数年前の出来事なのに、今は何故か、つい最近の出来事のように鮮明に思い出せる。俺があの場で何を言ったのか、何をしたのかを。
その代わりに、妻と娘と共に過ごした日々の記憶が急速に褪せていくのを感じる。まるで夢から醒めた後のように、彼女たちとの思い出から現実感が消えていく。確かにあったという確信が薄れていく。

MUR(あぁ、そうか......)

少年「取ってくれてもいいじゃん、もう」

少年が俺の足元まで来て、ボールを拾う。かがんだ姿勢から立ち上がろうと顔を上げた時、俺と目があった。

少年「おじさん? おじさんどうしたの?」

MUR(もう、駄目なんだ、俺)

野獣『分かっているのは、概念の卵が孵化すると、植え付けられた人間は概念体になるということだけだ。今お前の身体の中では既に、その孵化が始まっているはずだ』

先ほど野獣が言った言葉を、思い出す。身体のダルさの原因も、記憶が消えた理由も、やっと分かった。

少年「おじさん.........泣いてるの?」

MUR(俺の身体は今、サナギと同じなんだ。身体がダルかったのは、孵化のために俺が大人しくしている必要があったから。記憶が消えていくのは、俺がどんどん、ソイツに近づいていってるからなんだ)

MUR(今まさに俺は、俺じゃなくなっている最中なんだ)

父親「お、おい明日名!その人から離れなさい!」

少年「お父さん! この人泣いてるよ!泣いてるよ!」

父親「いいから早く! 今日はもう帰るぞ!」

挙動不審な俺を、危険人物だと思ったのだろう。父親が少年の腕を掴み、どんどん遠くへ離れていく。
父親の判断は、正しい。俺はもう、人間じゃ無くなってしまうのだから。概念体とやらになった後で俺が何をするのかは、俺にも分からない。

キャッチボールをしていた親子が去り、公園に残ったのは俺と、どこかで鳴いているニイニイゼミだけ。

MUR(そういえば俺はあの後、ニイニイゼミの名前の由来を、娘にちゃんと教えてやったのだろうか)

なんでこんなしょうもない記憶が、こんな時に一番頭に残っているんだろうと俺は自嘲する。彼女たちとの思い出が消えてしまうって時に、なんで俺は......。

MUR(......もしかして、)

MUR(俺はニイニイゼミにまつわる娘との会話を覚えていたんじゃなく、今、この場で思い出したんじゃないのか? 目の前で親子が遊んでいて、ニイニイゼミが鳴いていたから)

MUR(記憶にまつわる何かを見れば、俺はその出来事を思い出せるんじゃないだろうか。だから、俺はあの時の妻が何をしていたのか思い出せなかったんだ。この場に、妻を連想させる何かはなかったから)

じゃあ、妻と娘に会えば、俺は彼女たちとの記憶を、思い出せるんじゃないか? 記憶を失わずに、済むんじゃないか?
そう思い至った俺は、重たい身体を無理矢理立ち上がらせた。概念体になろうとする意志が、俺に動くなと命じているなら、俺はそれに逆らわなければ。

MUR「帰ろう。妻と娘のところへ」

帰ろう。もう帰ろう。ホモビだの、概念だの、そんなことはもうどうでもいい。この記憶が、彼女たちの顔さえ分からなくなってしまう前に、家に帰らなければ。

MUR「ぐぅ、うぅ、ぐっ...!」

全身を包む倦怠感が、一歩、また一歩と踏み出すことにさえ、苦痛を伴わせる。身体が叫んでいるのだ、お前は大人しくしていろと。

MUR「うるっせぇんだよ......俺は、家に帰るんだ!!」

なんとか足を踏み出し、俺はようやく走り始めた。最初は沼の中を進むような、酷い疲労感を伴った。だが10歩、100歩と進む内にだんだん身体が楽になっていく。重い鎖が外れたみたいに、どんどんスピードが上がっていく。

MUR「うおおおっ、おおおおおおお!!!」

走る。走る。走る。公園を抜け、街路に出た。俺の家の方角はどっちだったろうか。思い出せない。思い出せないが、動かないよりかはマシだ。走っていればいつかは家にたどり着くはずだ。そのはずだ。
走る。走る。走る。身体が凄く軽い。走るのが気持ちいい。家に帰れば、妻と娘が待っている。早く帰って、シャワーも浴びたい。これだけ汗を流したのだ、きっと気持ちがいいだろう。
走る。走る。走る。家に帰れば妻と娘が待っている。家についたら、もう俺は空手部なんて辞める。鈴木や木村には悪いが、あんな部活、俺は苦しくて嫌なんだ。
走る。走る。走る。妻と娘が待っている。妻と娘が待っている。早く帰らなきゃ、家に帰ってラーメンにミンミンゼミを入れるんだ。妻と娘が待っているんだから。

MUR「いえっ、いえっ、つまぁ!むっ!!」

俺は走った。とにかく走った。そして走っていると黒い車が道からでてきて、はねられた。びっくりしたので、でも俺はぜんぜん平気だったから、車が動くのをみて、車で思いついた。
そうだ、この車に連れていってもらって、車で家と妻と娘に連れていってもらおう。妻と娘が待っているんだから。

MUR『俺も乗せてくれ』

そう言っているのに、車はいきなり動いて、俺にお尻を向けて、走ってしまう。待って、って言っているのに、走ってしまう。

MUR『待ってくれ!俺も乗せてくれ! 俺を家に連れていってくれ!』

車は止まらない。走ってしまう。追いかけなきゃと思って、俺は走る。頑張って走って、走っていると、車から黄色い奴が車から顔を出して俺を見た。俺を見た黄色い奴が俺を見るから、そいつに向かって俺は大声で叫んだ。

MUR『俺を家に連れていってくれ! 俺を家に連れていってくれ!』

MUR『妻と娘が、待っているんだ!!』


彡(゚)(゚)「お、おい! もっとスピード上げろや轢き逃げ! もう追いつかれるぞ!」

宇野「轢き逃げ言うな!無茶言うな! こんな住宅街の狭い道でかっ飛ばしたら、また人轢いちゃうかも知れないじゃない!」

彡(゚)(゚)「一回轢いたら百回も万回も大して変わらんわ!」

(´・ω・`)「変わるに決まってるでしょ!」

宇野「じゃああなたが運転してくださいよ! 私もうあんな怖い思いするの嫌なんですよ! 当たった瞬間もう、強い衝撃が前からドンっとして、」

宇野がヒステリックに叫ぶのを遮るように、ドンっという衝撃が車内を揺らした。今度は後ろからのようや。

宇野「うひゃあああもうやだぁ! 今度はなんなんですか玉突き事故ですか!? 私の過失は0ですか!?」

彡(゚)(゚)「ちゃうわボケ! お前がちんたら運転するから追いつかれたんや! むしろお前の過失が10や!」

宇野「安全運転してるのにっ」

(´・ω・`)「宇野さんのキャラが壊れてる......」

縄で縛ったKBSトリオの向こうに、バックドアの上に四つん這いで乗るMURの姿が、ミラー越しに見えた。さっきの衝撃は、こいつが飛び乗ったことによるものだろう。

彡(゚)(゚)「おい! MURが車の後ろに乗っとるぞ!どうするんや!」

宇野「......あー、もう! 今から車を右に寄せて走らせます! なんJ民さんは左のドアを開けて車の屋根に登って、彼を車からはたき落として下さい!」

彡(゚)(゚)「戦え...ちゅうことか?」

宇野「車から落としてくれれば手段はなんでも構いません。原住民さんはその後で扉を閉めてから、なんJ民さんら外の様子を私に報告してください!」

(´・ω・`)「ラジャ!」

彡(゚)(゚)「そうと決まれば......オラァ!」

青「ガネッ!」

赤「ボリョッ!?」

黒「ゼッグズッ!!」

気絶しているKBSトリオを、念のため一発ずつ殴ってから、ワイは左側のドアを開いた。

彡(゚)(゚)「途中で目が覚めたら面倒やからな。ほな、行ってくるで」

(´・ω・`)「行ってらっしゃい!気をつけて!」

車の屋根に手をかけ、一息で全身を屋根まで運ぶ。バックドアに両足を着けるMURに対して、やや高い位置で向かい合う。

彡(゚)(゚)「よう、お前がMUR大先輩やな」

MUR「......ゾ、ゾ、ゾ」

バタンと音を立てて、原住民がドアを閉めた。それとほぼ同時に車が左折を始め、慣性による圧がかかる。ワイは身体を少しよろめかせながら、足場が悪いとこで長いこと戦うのは、多分よろしくないなと思った。

彡(゚)(゚)「戦う前に、2つだけ礼言うとくぞ。結構余裕あったはずなのに、車壊さないでくれてありがとな。狙いが何かは知らんが、ワイこの車けっこう気に入っとるんや。お釈迦にされたらそりゃもう、たまらんかったわ」

MUR「......ウゥ」

彡(゚)(゚)「2つ目。お前みたいな文句無しに強い奴を、ワイは待ってたんや。さっき戦ったアホどもは、まぁ一発で倒せたんやけども。あんな雑魚っぽいの倒しても、ワイが強いのか弱いのかよう分からんからな」

彡(゚)(゚)「お前はなんか言いたいことあるか?」

MUR「ゾ、ゾ、ゾ、いいゾ〜」

彡(゚)(゚)「......そか。まぁ、そうやろな。んでは」

彡(゚)(゚)「分かり合えない事が分かったところで、やらせてもらうぞ死に晒せぇ!!」



宇野「原住民さん! 上の様子は!?」

(´・ω・`)「ま、まだ戦ってないみたい!」

宇野「人のこと遅いだのチンタラしてるだの言っといて、なに自分はまったりしてんだあの野郎!」

宇野(! クソッ、また左折だ。嫌だなぁ、曲がりたくないなぁ、人跳ねるの怖いなぁ)

住宅街で運転するストレスが、私の精神を削っていく。なんでこう、日本の道路はどこもかしこも狭いのだろうか。あとなんでこんな曲がり道が多いの。

宇野(あー、もう! 権田さんさえ健在なら、こんな怖い思いしないで済んだのになぁ! 私の判断ミスが原因なんですけれども!)

横目でチラリと、助手席で気絶している権田さんを見てみるが、まだまだ起きる気配は無さそうだ。

権田「.........」ピクッ

権田(せ...た...が...ゃ......)