舞台の上から大きいスクリーンが下りてきた。

映写機が回り、舞台は白く光り、鮮明なスライド写真がスクリーンに映し出された。

遠足の写真が、一枚ずつ上映されていく。

あたしの写っている写真はいつまで経っても出てこない。

この遠足はそれなりに楽しかった。

あの頃はまだママがいつも側にいて、バスでも隣の席に座っていて、ゆっくり寝られた。

今のように一人だったら絶対寝られない。

寝たふりをするだけで。

そして、写真にはもう一人の式波・アスカ・ラングレーが映しだされる。

あたしでないもう一人のあたしは途中から眼帯をつけている。

それから………。

ふと目覚めて横を見ると、ヒカリは通路側に首をねじって、騒いでいる集団をひたむきな瞳で見つめていた。

いい加減注意したほうがいいかな?という感じに、上半身を座席から乗り出して。

すぐ前では、いつもの三バカ男子たち、鈴原トウジと相田ケンスケがバカシンジに必死に茶々を入れている。

つまらないことばっかり言っているけれど、時々、本当に時々なんだけれど、おもしろいことを言ったりもする。

でもそんな奇跡が生まれるのと同時に、あたしの苦しい自分との戦いも始まってしまう。

頬杖をついて手のひらでほっぺたと口を歪むほど押さえつけ、眉間に力を入れて、仏頂面をキープし、何がなんでも噴き出さないように努力をする。

高校に入ってからというもの、何度笑いをこらえたことか。

笑うってことは、ゆるむっていうことで、そして一人きりでゆるむのには並々ならない勇気がいるものだ。

もし周りにびっくりした目で見られたりしたら、たまらない。

笑いをこらえている時って、むやみに腹筋がひくついて、切ないんだ。

丹田というのかな?

あの臍の下辺りに力を入れるのがコツなんだけれど、これを数え切れないほど繰り返してきたから、私のお腹には〝笑いこらえ筋〟がついているかもしれない。

あいつらの話から気をそらせたくて辺りを見回すけれど、いつも相田の後頭部に目が吸い寄せられていく。

波打っている寝癖。

他の男子の寝癖は毛が短いため豚のしっぽみたいにカールしているけれど、彼の髪はやや伸びすぎているから、ゴムでくくった痕みたいに波打っている。

相田は列の前方で私よりも黒板に近い位置にいるくせに、全然前を見ていなかった。

相田の丸まった背中、きっと靴跡が似合う。

白墨のついた運動靴の靴裏の跡が特に似合うと思う。

いずれ誰かがつけるかもしれない。

高校の暮らしにも慣れ始め、退屈をいじめで紛らわせようとする誰かが。

そうしたらあたしはうらやましくてしようがないだろう。

いつの間にか、休み時間は終了していた。

先生の指示を受けて、生徒たちは一組から順番に、みな一様にだるそうに校庭へと出て行く。

生徒でいっぱいの下駄箱前で、窮屈になりながら棚から運動靴を取り出し、ぼんと地面の上に落とすようにして置いた。

すると、あたしの汚れた運動靴の横に、見覚えのある紫の差し色の入ったナイキの靴が置かれた。

横を見ると、相田がいた。

彼はすのこの上に座り、上ばきを脱ぎ出した。

私も隣に座って上ばきを脱ぎ、靴を履き始める。

横を向き、伏し目の相田に何か声をかけようとしたけれど、なぜか心臓の鼓動が速くなって、何も言えなくなった。

相田が近い、横にいる。

靴紐をばらしている骨張って固そうな腕に肘が触れてしまいそうになり、反射的に上半身をくの字にして接触を避けた。

首を少し引っ込めて上目遣いで彼の顔を見たけれど、彼の方は心ここにあらず表情。

靴を履くと、彼は伏し目のまま立ち上がり、後ろから出口に押し出されるようにして校庭に出て行った。


アップランだけは譲れない。

運動場を、一周目はゆっくり走り、二周目は一周目より少し速く走り、三周目は二周目よりも速く……と、周を重ねるごとに走るスピードを上げて、ラストの周は全速力で走る。

徐々に上がっていく息がドラマチックな走り系トレーニング、アップラン。

あたしはこのアップランを、体裁かまわず本気で走る。

前半は一番後ろを大人しげに走っているけれど、ラスト周ではできるかぎりスピードを上げ、他の部員たちをごぼう抜きにして、最後は意地でも一位でゴールインする。

アップランはあくまで練習、目的は自分の走りのペースをつかむためのものだけれど、本レースでは絶対勝てないんだからここで頑張るしかない。

〝速く走れそう〟と言われた見かけ倒しの脚は、卑怯な動きにかけてだけは見事だ。

みんなの不意をつくためにいきなりペースを変えたり、翌朝筋肉痛で動けなくなるくらいのラストスパートをかけたり、カーブにさしかかった時に横を走っている子に偶然のふりしてぶつかったりと、勝つためにはなんでもする、あたしのたくましい脚。

でも、いくら勝ちたいからといって、むきになりすぎるのはよくない。

前を走る子を抜こうとラスト周のカーブで身体を傾けすぎたりすると、転んじゃうからね。

からからに干上がった手洗い場にたどりつき、大きな蛇口をひねった。

乾いて真っ白になっているコンクリートの流しの上に、水が滝のように流れ落ちていく。

蛇口を上向けて、膝小僧より少し上にできた擦り傷を流水につけると、傷の赤色が鮮やかになった。

水は太陽熱に温められていて生ぬるく、脛をだらだらと伝って靴下までも濡らしていく。

傷の砂を洗い流した後も、なんとなく蛇口を止められなくて、ほとばしる流水が、靴下のくるぶしあたりにまで染み込んでくるのをそのままにしていた。

手洗い場の蛇口越しに、校舎からなだらかに続く木立の坂をこっちに向かって走ってくる生徒が見えた。

段々近づいてくる。

走る振動に合わせて、髪が、くらげのように揺れている。

相田だ。

私の前まで来ると、彼の前髪は汗のせいで顔に重たく貼りついていた。

「ずっと、運動場にいた?」

「いたわ」

「そうか。間違って校舎を探してしまってた」
 
少し前屈みになって目を閉じ、呼吸が荒くなくなるのを待つ彼は、夏の日差しと運動場が全く似合っていない。

「あのさ、一人で行ってみたんだけど、やっぱりあの地図では『夢の場所』が分からなかったから、案内してくれないか?」

「授業中だから無理」

というか、日中から『夢の世界の場所』の特定には付き合わされたくない。

「授業中?誰もいないけど……」

後ろを振り返ると、目の前には、のっぺりとした無人の運動場が広がっていた。

あたしの引きずっていた脚が描いた、弱々しく長い線だけが運動場を横断していて、あとは静寂。

クラスメイトたちは先生と一緒に教室に行ったとしても、放課後の部活動で出てきたソフトボール部員やサッカー部員はどこに消えた? 

さっきまで確実に響いていたはずの掛け声や号令はもうなく、跡形もなく消え去っている。

あたしの後ろの手洗い場の、出しっぱなしの水が流れる音だけが辺りに響いている。

「光化学スモッグの注意報が発令された、って校内放送で言ってた。だから屋外での部活は中止になったんじゃない?おれたちも早く日陰に入らないと、目がちかちかしてくるよ」

そういえば先生が、校舎から走ってきた生徒と話しているのを、アップランの時に目の端で見たような気がする。

あの時に、光化学スモッグ警報が出ている、っていう情報が入ったんだろう。

「あ、怪我」

相田がポケットから絆創膏を出した。

絆創膏のシールを剥がす彼の指を見ていたら、地面に汗が落ちて黒い染みができた。

腕についている転んだ名残の砂は、日に灼けた腕自体よりよっぽど白い。

遠くの空から、ヘリコプターの低い音が近づいてきた。

「傷口を見るのが怖いから、絆創膏を貼るんだよ」

制服のシャツをズボンに入れた救護班員は、広範囲の擦り傷に、慎重に絆創膏を貼った。

不意にくすぐったいような、気持ちいい感覚が身体の中で広がった。

相田を見下ろすのって、なんだか気持ちいい。

彼のつむじがすぐ触れられるところにある。

「サバイバル雑誌に書いてた。じゃあな」

彼は立ち上がり、校門に向かって歩き出す。今日、学校で初めて話をした人。

「待って、あたしも行く」

小走りで彼を追いかけ、誰もいない運動場を後にした。

じっとり汗がにじむの感じながら相田と一緒に、ビルの日陰をつないで歩く。

駅前の大通りでのランニングパンツ姿は浮いていて、すれ違う通行人の視線を感じた。

着替えの制服は学校の教室に置いてきたままだ。

早く着替えたいけれど、今取りに入ったら、クラスメイトたちと鉢合わせしてしまう。

「あんたの家でちょっと休ませてほしいんだけど、いい?」

言ってから、高校に入ってからずっとできなかった〝幼馴染のバカシンジ以外に人に気楽に声をかける〟ということが、相田ケンスケ相手だとできたことに気づいた。

「ああ、別にいいよ」

相田も気軽に返事して、私の帰り道と学校の中間地点くらいにある彼の家へと向かう。

こんな簡単な会話が、久々なせいか、乾いた心に水のように染みこむ。

私は、この、少し前を歩く猫背の男の子と友達になればいいのかもしれない。

男友達、という響きを思い浮かべるとヒカリが言っていた時は馬鹿みたいと思っていたのに、胸が高鳴った。


相田ケンスケの家に行くようになったのはあたしと彼が同じ『夢』を見ていることをふとしたことをきっかけに知ったからだった。

教室で相田は、先生に見つからないように膝の上で雑誌を読んで時間を潰していた。

いや、あれは読んでない、ポーズだけだ。

どこも見ていない目で、ひたすら同じページに目を落としている。

しかし、この彼はどっかおかしい。

何が間違っているのか分からない、けれどこの人をじっと眺めていると、味噌汁の、砂が抜けきっていないあさりを噛みしめて、じゃりっときた時と同じ、ものすごい違和感が一瞬通り過ぎていく。

分からなくてもどかしい。

どこかな、何が間違っているのかな。

ああそうだ、彼の雑誌が、おかしいんだ。

片眉を上げてこちらを見据えている女モデルが大写しになっている表紙、『カジュアル夏小物でGO!』という見出し女性ファッション誌じゃないか。

洒落たOLが愛読してそうなやつを、読んでる。

授業中に堂々と広げている。

負けたな。

女性ファッション誌を授業中に一人で開くことのできる男子に比べたら、私のプリント千切りなんか無難すぎる。

不要なプリントばっかり千切っている私は、ただの人間シュレッダーだ。

この行為が見つかったら、彼はクラスのみんなにどれだけ気色悪がられるか分かっているんだろうか。

椅子の座るところの裏を両手で持ち、お尻につけたまま、かたつむりのようにして彼の近くへ行き、雑誌を覗きこんでみたら、間違いない、やっぱり女用のおしゃれ雑誌だった。

キャミソールなどの夏物に身を包んだモデルたちが、華麗なポーズを決めている。

私が横にいるのを気づいているのかいないのか、彼は猫背で同じページを見たまま動かず、抜け殻状態だ。

「おもしろいの?そんなの見て」

相田が顔を上げ、その顔に私はぎょっとした。

前髪が伸びすぎている。

醤油を瓶ごと頭にこぼしてしまったかのような重く長すぎる前髪の下から、警戒するような光る瞳が覗いていた。

目立つ半開きの口からは、並びの悪い尖った歯が見えた。

何気なく彼の見ている雑誌を後ろから覗きこんだ。

すると雑誌のページの中に、見覚えのある笑顔があった。

「……あ、」

この人、知ってる。

葛城ミサトだ。

雑誌のページの中で、細身のジーンズを着て気持ちよさそうに伸びをしているこのモデルに、私が14才の頃に『夢の中』で一回、もう一回はつい最近学校近くのカフェで会ったことがある。

中学生の夢の中であったときはあたしはエヴァとかいうロボットの天才パイロットで指揮官のミサトの指示にしたがって敵の使徒を倒していた。

起きた時は荒唐無稽な夢ですぐ忘れていたんだけど、つい最近に本人に直接あった時にまた思いだした。

現実であったときは、モデルみたいな有名人に会うなんてめずらしいことだから、わざわざ、この人の出ている雑誌を買い、この笑顔を指差してクラスメイトに自慢したりしていた。

あの頃と同じように、彼女の笑顔の横に人差し指を置く。

「あたし、駅前のカフェで、この人に会ったことがある」

いきなり、相田が私の方を振り向いた。

座り主が動いたせいで、彼の椅子の脚はプリッツを砕いたような軽い音を出した。

「人違いだろ」

「そんなことない。このハーフみたいな顔立ち、よく覚えてる」

鼻がツンと高くて彫りの深い顔立ちなのに、目だけが日本人の一重目蓋だったその顔は、個性的で忘れられない。

「うちの市に古い大きな洋館みたいな市役所があるでしょ。あそこで雑誌の写真撮影をするためにこの街に来たって言ってたわよ」

相田が魂も一緒に抜け出ていきそうな、深いため息をついた。

その後、片手で前髪を鷲掴みにするようにして頭を抱えている。

何かまずいことを言ったんだろうか。

「相田、式波、遊んでるんじゃないぞ」

班を見回っていた先生が近くに寄ってきた。

「テストに微生物を描けっていう問題出すから、顕微鏡の倍率ちゃんと合わせて細部まで見ておくように。教科書のp23の原核生物の拡大写真もよく見ておくこと」

先生が去ると、相田は机の陰にとっさに隠した雑誌を鞄の中にしまった。

そして代わりに教科書を取り出し、p23を開け、文章に猛然と赤線を引き始めた。

ページが赤色に染まっていく、一行目も二行目も、三行目も。

p23に、そんなにたくさん要チェックの箇所があるとは。

「赤いわね」

圧倒されて呟いたら、線が大幅に歪んだ。

相田の手が震えている。

筆圧の強いペン先からはインクがにじみ、教科書に丸い赤の染みがじわじわと広がっていく。

もしかしたら私、これ以上ちょっかいを出さない方がいいんじゃないだろうか。

赤い染みはもう血にしか見えない。

椅子を持って早歩きで撤退しながら、変な仲間意識を持っちゃった自分も、奇怪な行動をとる相田も憎くなった。

自分の席に戻ると、机の上の積み上げていた紙屑の山がなくなっていて、代わりに周りの床が点々と白くなっていた。

窓から吹いてきた風が山をさらって、紙屑を床に飛ばしたのだ。

すぐにしゃがみ、紙屑を拾うけれど、でも理科室の水槽の磯臭いにおいを乗せた窓からの風が、拾おうとした紙をすっすっと飛ばしてしまう。

逃げていく紙屑を拾おうとして蛙のように低く飛び跳ねる私には、気怠さのかけらもなくて、もう嫌だ、何をやってもうまくいかない。

ようやく拾い集めた紙屑全部を机の上に置き、また風に飛ばされることのないように、すばやく机の上にうつぶせになって、親鳥が巣を守るみたいに紙屑の山を腕で抱え込んだ。

顔に紙の角が当たって痒い。

片方の耳を薬品のにおう机に押しつけて目を閉じると、オオカナダモの細胞の絵を描く鉛筆の芯が紙を通り抜けて机に当たるコツコツという音が、机から伝わって直接鼓膜に響いてきた。

他にも顕微鏡をがちゃがちゃ動かす音、話し声、楽しげな笑い声。

でもあたしにあるのは紙屑と静寂のみ。

同じ机を使っていても向こう岸とこっちでは、こんなにも違う。

でも人のいる笑い声ばかりの向こう岸も、またそれはそれで息苦しいのを、私は知っている。

終業ベルの音で目覚めた。

目を開けると、視界に白いものがかぶさっていて、前が見えない。

紙切れの巣の中で眠っていたせいで、おでこにプリントの切れ端が貼りついている。

一つ瞬きをしたら、紙がまつ毛に触れて、額の脂を吸った紙きれは音もなく落ちた。

すると、目の前に、相田の顔があった。

「分かったから、早く観察ノート写して。提出期限、今日の四時までなんだから」

「だってあの顔忘れられない……。瞳孔が開くって、きっとああいう状態のことを言うんだよ、目ン玉が真っ黒だったもん」

「相田くんは日本人なんだから、目玉黒くて当たり前だよ?」

そうじゃなくて。

私を見ているようで見ていない彼の目は、生気がごっそり抜け落ちていた。

人間に命の電気が流れていると考えるとして、生き生きしている人の瞳ほど煌々と輝いているなら、にな川の瞳は完全に停電していた。

「それから、私、相田のおうちに招待されました。」

「なんで!?」

「こっちが聞きたい。今日授業終わったら来て、って突然言われた。あの目には逆らえなくて頷いちゃったけど、大丈夫かなあ」

「アスカのこと好きになったのかもね」

ヒカリは呑気に笑った。

他人事って感じだ。

「中学からの友達にも見捨てられたような私に、ほれたりはしないんじゃない?」

「またいきなり、そうゆうこと言う」

ヒカリは気まずそうに押し黙る。

その視線の先には鈴原トウジがいた。

夕暮れ、部活を終えた私を、相田は校門前で待ち伏せしていた。

どうも、と挨拶したきり無言の彼の後ろをついていって、私の家とは反対方向の、通ったことのない細い道を歩いた。

前を歩く相田の影は黒く長く伸びて、ちょうど私の歩く足のところに彼の頭の部分が来ている。

影を踏みしめる度に教科書の入ったリュックサックが重くなる気がする。

周囲の洋風な新しい家々とは違って、相田の家は平屋の古い造りだった。

鉄の門の向こうにはぬれぬれとした石畳が続いており、玄関の戸は引き戸で小さい。

相田が押すと、門は細長く甲高い音を立てて軋んだ。

家に上がる前に、お邪魔しますと言ったけれど薄暗い部屋の奥からは誰の返事もなく、

「今、親は仕事に行ってるから」

彼は靴を脱いで静かに家の奥へ入っていく。

昔の家だからか、天井が低く、全体的にこぢんまりしている。

玄関の正面にある襖は閉じられていて、にな川はその襖の脇にある磨りガラスの敷居戸を開けた。

薄暗い板張りの細長い廊下が長く続いていて、靴下を通して、板廊下の冷たさが足の裏に染みてくる。

今が初夏だということを忘れさせてくれる家だ。

廊下の奥にある引き戸の先には、日当たりの悪い狭い庭があり、石段の上に、つっかけが三足あった。

相田は何も言わずにつっかけに足を突っ込み、庭を歩いていく。

私もつっかけを履いて、庭に下りた。

庭には盆栽や古雑誌、旧式の小さな洗濯機や物干し竿なんかがあって、さしずめ屋根のない物置きといったところ。

足元の生えっ放しの雑草には、蚊が群がっている。

「どうしてこんな所に来たの?」

「ここから、おれの部屋に入るため」

相田は庭の奥に行き、茶色の塀と同化していて気づかなかった、勝手口みたいな小さなドアを開けた。

するとドアの向こうには唐突に上り階段があった。

草ぼうぼうの庭からすぐ階段が続いている光景は異様で、見ていると目まいがしてくる。

「うち、もとは平屋なんだけど、あとから二階を造ったせいで、いったん庭に出てから階段を上らないと、二階へ行けない構造になっちゃったんだ」

相田がざらざらの壁に手を伸ばし、電気をつけると、狭くて急な階段がぼんやりと浮かび上がった。

「まあ改築っていっても、この二階はおれが生まれる前からあるほど古いものなんだけど」

確かに階段は年季が入っており、がっしりとした浅黒い木でできていて、古い校舎の階段のようだ。

あたしたちが段を踏みしめる度に、階段の上の橙色の電球は、線香花火の火のように細かく震える。

階段が終わり、真正面の黄ばんだ襖が開けられると、そこは畳の部屋だった。

サイコロの中みたいに正方形で、大きな窓があるのに薄暗い。

一番先に目についたのが部屋の隅にある学習机で、私が小学校入学の際にランドセルと一緒に買ってもらったのと同じ、正面にアニメのポスターを飾るスペースのあるタイプだ。

その学習机だけが妙に幼くて、他の黄ばんだ襖の押入れや古い型の小さな冷蔵庫、上にこけしやガラスケースに入った日本人形が置いてある背の低い漆塗りの箪笥となじんでいなかった。

逆に言えば唯一学習机だけが普通で、他は年寄りくさい。

男子の部屋に入るのってバカシンジ以外だと初めてだけれど、こんなにひなびた部屋で暮らしているとは。

というか、ここが特殊なだけなのかもしれない。

「日本人形とか、こけしとかが好きなの?」

「別に。あの人形たちは昔からそこにいたから、放っておいただけ。死んだおばあちゃんの、捨てきれない形見の一つらしいけど」

形見……。

こけしを触ろうとした手を引っ込める。

しかし、唯一まともに見えた学習机も、近づいてみたらすごく変だった。

歯ブラシと歯磨き粉がシャーペンやカッターなんかと一緒に鉛筆立ての缶に入っている。

机の棚には勉強道具だけじゃなく七味唐辛子の小瓶やウスターソースが並べてあり、教科書の横のプラケースの中にはフォークスプーンやお箸が入ったナイロン袋があった。

椅子の背にはバスタオルが干されている。

この学習机に一日の生活がすべて集約されている。

「ごはん、ここで食べるの?」

「うん、落ち着くから」

この固い木製椅子に座り、電気スタンドと差し向かいでごはんを食べている猫背の彼をまざまざと想像できた。

おもむろに、相田が片手を空中に上げたので、あたしはびくっとした。

何かと思ったら、エアコンが低い機械音を立てて動き始め、さっきの動作がリモコンでスイッチを入れたのだと分かった。

ちょっと生臭い鰹節のようなにおいのざらついた冷気がすべり落ちてくる。

「着替えてもいい?いつも家帰ったらすぐに部屋着に着替えるから、家の中で制服着てるとしっくりこないんだ」

返事を待たずに勝手にブレザーを脱ぎ始めてしまったので、じっとりと窓の外を睨んで待つしかない。

なんなの?

なんであたしはここに呼ばれたんだろう? 

なんか怖くなってきた。

頼まれるままノコノコとついて来たはいいけれど、なんか怖くなってきた。

ここは完全なる独り用のお部屋だ。

空気が部屋の持ち主一人分しかなくて息苦しい。

視線を戻すと、相田は、暗い緑色に細い黒の格子が入っているオセロ盤みたいな柄の着古したシャツと、裾が擦り切れて白く糸状に垂れているGパンに着替えていた。

痩せぎすのくせに、私のより大きくて、あたしのよりつくりが雑な、彼の足や肘に目が行く。

アスカのこと好きになったのかもね、というヒカリの言葉を思い出した。

授業中に女性ファッション誌を食い入るように見ていた彼。

何を考えているのかまるで分からない男の子。

相田は机の一番下の引き出しから二個のコップを、冷蔵庫からペットボトルを取り出し、お茶を注ぐと、私に手渡した。

さらに机の一番下の引き出しに入っていたお歳暮で贈られてきそうな高価な菓子箱を開け、たまご形の洋菓子を一つくれた。

大人しくなっていくあたしとは逆に、自分の水槽で本来の姿に戻ることができた彼はリラックスしてきたようだった。

「突然だったのに、おれんちまで来てくれてありがとう。」

ゆっくり言って、おもむろに側に寄ってきた。

「でさ」

うぶ毛の擦れるしゃっという音が微かに耳に響き、指の腹の生あたたかい感触が肌の上に残った。

彼は素早く私の背後にまわり、あたしブラジャー位置の背後から何をとったのかと思うと
目の前にメモ用紙とボールペンが差し出された。

「ごめん、ちょっとここに……描いてくれないかな。」

「描くって、何を?」

「君が葛城ミサトに出会った場所の地図」

どうして今あの人の話が出てくるんだろう。

「生物の時間に言わなかったっけ、私があの人に会った場所は、駅前のカフェよ」
 
地図なんかにわざわざ描かなくても、ここらへんに住んでいる人間なら絶対に知っている場所のはずなんだけど。

「うん。それは聞いた。それで、あの店のどこで、つまり何階の何売り場のどこらへんで彼女に会ったのかを、地図に描いて教えてほしいんだ。」

「描くけど……」

「本当に? 面倒くさいこと頼んで、悪いな」

描くよ、描きますよ、それがあたしを家にまで呼んだ目的なら。

描くけど、なぜそんなことが知りたいのかを知りたい。

「何、あのモデルって、相田の失踪した姉とかなの?」

「まさか、違うよ」

訳の分からないまま、とりあえず、三角座りをした膝の上で地図を描き始めたら、相田が待ちきれないといった感じで覗きこんでくる。

どんどん地図に接近してくる鼻づらが邪魔で、地図を描くのに集中できない。

私は身体をもそもそと回転させて彼に背を向けた。

するとちょうど目の前に、この部屋を立って眺めていた時には気づかなかった、異様な物があった。

学習机の下に大きなプラケースがある。

普通だったら冬物の洋服なんかを詰め込んで、夏の間押入れにしまっておくような、大きな蓋付きのプラスチックケース。

ケース自体は異様ではないけれど、置き場所が変だ。

ケースが巨大すぎて、机の下の空きスペース、本来なら椅子に座った時に足をぶらぶらさせるための場所、をほとんど占めているのだ。

あれじゃ椅子に座った時、足をどこにやるんだろうか。

椅子の上で正座するしかないじゃないか。

「机の下にあんな大きいケースがあると邪魔でしょう」

「いや、これは……こうやればいいから。」

椅子の上で三角座りをした。

コンパクトになってしまった彼の姿が恥ずかしくなって、目をそらした。

あたしが恥ずかしくなるなんておかしい。

思春期の男子高校生なんだから、こんな格好をしている彼自身に恥ずかしがってほしい。

相田が椅子から下りた後、あたしは地図を描くのを中断して机の下のケースをちょっと引っぱった。

すると底についていた車輪が畳の目に沿ってうまく滑って、ケースはあたしの前まで来た。

思わず蓋の両側についている黒く光る留め具を外すと、柔らかい甘い匂いがドライアイスの煙のようにケースからあふれた。

4月号、5月号、6月号、ひと月も欠かさずに、一ミリの隙間も許さずにみっしり詰め込んであるのは、理科室で見ていたあの女性ファッション雑誌だった。

ケースの一番外側に貼りついている号では、葛城ミサトが表紙を飾っていた。

ケースの中はとても華やかだけれど、どこかまがまがしい感じがする。

押し込めるようにして、急いで蓋を閉めた。

「そこにある雑誌には全部葛城ミサトが載ってる。かなり昔に発行されていた古い雑誌も、ネットオークションで買って揃えた」

変声期の済んだ男子がミサトミサト言っているのは、かなり不気味だ。

「なんでこんなことしてるの、こんな、集めて……」

「夢に出てくるから」

「夢?」

間抜けな声で反芻した。

夢。

さらりとした言葉。

「おれ、ミサトのファンなんだと思う。一年くらい前から彼女の夢をよく見るんだ」

彼は真面目な顔で言った。

ファンという言い方は、ふさわしくない。

ややこしい。

その軽快な響きと、相田のミサトに対する強い思い入れは、まるで結びつかない。

「おれの夢に出てくる葛城ミサトは空中戦艦の船長で世界の命運をかけて絶望的な闘いに身を投じているんだ」

その言葉を聞いたとき、あたしの脳裏にノイズが走る。

見てもいない景色が、光景が、状況が瞬間的に浮かびあがり消失した。

知りもしない単語が唇から紡がれる。

「ヴィレ?」

相田ケンスケは一瞬、ハトが豆鉄砲をくらったという言い回しにぴったり当てはまる顔がしたあと、頭を縦に動かして肯定した。

「そう、ヴィレ。反ネルフ組織ヴィレ。その目的はネルフ製人造兵器ロボットの破壊で」

「エヴァシリーズの全破壊」

「そう。エヴァ。そのエヴァの破壊と」

「「フォースインパクト発動の阻止」」


嬉しそうな相田と正反対にあたしは知りもしない言葉を紡ぐたびに脂汗をかいていった。

使徒、エヴァ初号機、2号機、8号機、ヴンダー。

意味不明な夢の単語の羅列を二人で出し合いなから、あたしはなにか、限界を感じて地図を書き終えたと相田に言った。

私の描いた地図を見て、彼は首をひねった。

「難解だな。あの店ってこんなに複雑な所だったっけ?」

確かに気もそぞろで描いたせいか、地図は迷路みたいな上、メモ用紙は手の汗とみみず文字で汚れていて、既に描いた本人にさえ解読不可能だ。

「ううん、うまく平面にできなかっただけ。ごめんね。役立たずで」

役立たずでの部分の声が尖る。

「全然役立たずじゃない。この地図を頼りにして行ってみるよ」

相田は慌てて取り繕い、そしてあたしを愛しそうに見つめる。

「おれ、今、一緒にいることができてるんだな……夢と現実でミサトに会ったことのある人と」

気分がかさついた。

相田にとって、私は〝葛城ミサトと会ったこと〟だけに価値のある女の子なんだ。

惚れられたんじゃないの、なんて見当違いもいいところ。

「地図も描いたし、もういいでしょ? 帰るわよ」

「あ、これだけ教えて、ミサトってどんな人だった?似てる人とかでいいから教えて」

お菓子だけは食べていってやる、と包装紙を剥きながら、いやいや古い記憶を掘り返した。

そう、ミサトから話しかけてきた。

とてもじゃないけど、こっちから話しかけられるような人じゃなかった。

大股で歩いてくる姿、素足に履いた大きいスニーカー。

葛城ミサトを思い出して胸苦しくなるのは何故なのだろう?

「……居酒屋の……」

「居酒屋?」

「飲んだくれオヤジ」

「飲んだくれオヤジ?!」

「うん。頭にネクタイ巻いた」

あとのイメージは青い空が似合って、セミロングががふさふさと風に流れていて、やさしげな瞳をしていて、そして一目見てすぐに分かる都会の女性。

相田は頭をがしがし書きながらはケースの中からファッション雑誌を取り出して、あるページを開いてあたしに見せた。

「式波が会ったのは、間違いなく本物の葛城ミサトだ。ミサト、市役所で撮影するって言ったんだろ。この写真を見ろよ、確かにうちの市の市役所だ。ページの右端にもちゃんと撮影地として載ってる」

彼の言う通り、古めかしい市役所の前で、建物に似つかわしくない元気な笑顔のミサトがポーズを決めていたけれど、それを見たって別に驚きはない。

どうでもいい。

お菓子はおいしくて、それが救い。

上等の洋菓子なのか、丸ごと口に詰め込んで頬ばると、甘くて濃くておいしい。

「知ってたら絶対撮影の現場見に行ってたんだけどなあ。でもあの頃はまだファンじゃなくて、ミサトていう人自体知らなかったからなあ。この写真見つけた時、悔しかったんだ、ニアミスみたいで。いや、ほんとはかすってもいないんだけど。でも今、彼女と出会えた人間に会えるなんて、ほんと、運命的って感じがする」

それを言うなら、又聞きの彼よりも実際に葛城ミサトに会ったあたしの方が、ミサトとの〝運命〟は強いはずだ。

ミサトに会った日のことがよみがえってくる。

「相田、あたし、そろそろ帰るね」

彼が何か言うのを待たずに、私は部屋を出た。

彼女はどんな思い出よりも鮮明に、二ヶ月前の頃のあたしを思い起こさせる。

今よりもっと周りに無頓着で、それゆえ強かった頃の私を。



電車に乗る前に駅前のカフェに寄るのが日課だった。

あの日も当然のように、あたしは朝十時に開店して間もない店に足を踏み入れた。

さわやかなBGMの流れている、白と黒と麻色の雑貨で統一された店内を、赤色のスポーツジャージに細長いスポーツバッグを肩にかついで歩いていった。

運動靴の底にこびりついている砂が、歩く度に磨かれた床にこぼれ落ちていく。

開店してすぐのため、吹き抜け三階建ての、一階にはカフェまである広い店内に、客は数えるほどしかいなかった。

コーヒーのいい匂いが漂うカフェを通り抜け、いつもの場所を目指す。

大きなコーンフレーク売り場には、それぞれ違う種類のコーンフレークが詰めてあるタンクが、ずらりと並んでいた。

タンクは黒いバルブを引くと、まるで蛇口から流れる水道水のように、コーンフレークが茶色い紙袋の上へ落ちてくる仕組みになっている。

全種類制覇を目指して、小皿の中の半分くらいを食べたら、次の種類へ行く。

朝、小皿に盛られたばかりの試食のコーンフレークは、どの種類も香ばしくておいしい。

その中でも、甘くて軽いシンプルな味の、生成り砂糖のコーンフレークが一番好き。

あとレーズンの混ざったコーンフレークもおいしい。

これが、あたしの朝ごはん。

その時、どこかに視線を感じた。

コーンフレークで口を膨らませたまま辺りを見回すと、カフェにいる客が、こちらを見て、笑っているのを見つけた。

ガラス張りの向こうで、女一人と男一人がテーブルを囲んで座っていて、あたしの方を眺めて、あけっぴろげに笑っている。

何、あのいじ汚い子!とか言いながら笑っているのかもしれない。

もしそうだとしても、やめる気はない。

まだコーンフレークをあと二種類食べきれていないもの。

あたしは彼らから見えないように棚のかげに隠れ、ラストスパートでコーンフレークを口に詰め込む。

「どこー?」

陽気な大声がカフェのある方角から近づいてきた。

なんとなく息をひそめる。

どこ?と聞いているわけだから、声の主は人を探しているんだろう。

でもここらへんにいる人間といえばあたししかいない。

声の主は、どこー? ここー?としばらくいろんな棚をうろうろした。

「あ、いた」

後ろから声がして、振り向くと、さっきまでカフェの椅子に座っていた女の人がいた。

スタイルといい、ふさふさの髪といい、まるで外国人で、手に水の入ったコップを持っている。

「コーンフレーク、おいしい?」

かすれている声、息はお酒くさくて、目は欠伸した後みたいに潤んでいる。

「水だよ。コーンフレーク、喉につまるでしょ?」

背が高い彼女はあたしの目線まで腰を折り曲げてから、コップを手渡した。

目の前にいきなり顔が来て、私は思わず顎を引いた。整った顔立ち。

ハーフなのか、目だけが日本人で、一重で真っ黒の瞳をしている。

目と高い鼻がミスマッチで、外人に扮して大げさな付け鼻をしている日本人のお笑い芸人みたいにも見える。

人なつこい、やさしそうな目で見つめられ、顔が熱くなっていき、あったかい汗をかいた。

ふやけた気分のまま、コップの水を一気飲みした。

それから水に濡れた口のまわりを、腕で乱暴に拭ったら、女の人は、「もののけ姫みたい」とはしゃいだ。

それから彼女は子供っぽく、とすんとしゃがんで、あたしの脚を眺めた。

「貴女の脚、いいわね。すごく速く走れそう。引き締まってる。いいな、私も今度はそんな脚にしてみようかなぁ」

あたしもつられて、うつむいて自分の脚を見た。

この脚を誉めてもらえたのなんて初めてだ。

どうやったらこれほどうまく声に色をつけられるんだろう。

女の人の白い手が、あたしの脚に触れた。

ふくらはぎの筋肉が反射的に引き締まる。

彼女はぱっと立ち上がって、カフェにいる男の人の方に振り返り、大声で話しかけ始めた。

英語だ。

返ってきた言葉も英語で、こちらに向かって歩いてくる男の人の腕は、長く白い。

女の人のそばに男が立つと、コーンフレークの棚より背が高かった。

二人の白いスニーカーのそれぞれは、サイズが見たこともないくらい大きい。

存在感のある四つの靴は、磨かれた光沢のある床の上に、四艘の船のように浮かんでいた。

女の人があたしの脚を指差して、カメラを持った男に何か英語で説明して、と、いきなり、私の脚がフラッシュで光った。

「この人カメラマンでね、記念に撮ってもらっちゃった、貴女の脚を」

いたずらっぽく笑った。

カメラを持った男が笑いながら自分を指差し、フォトグラファーと言う。

そして、女の人を指差して、スーパーモデルと言った。

女の人が上を向いて笑いながら、男の背中を叩いた。

とても仲がよさそう。

あたしも微笑もうとしたけれど、顔がうまく動かず、唇は真横にしか伸びてくれない。

今度はこづかれた男がふざけて、コーンフレークをつまんで、女の人に食べさせ始めた。

女の人も鳥みたいに首を動かして、コーンフレークをついばむ。

なんだかエッチな光景。

でもここで照れてうつむかないでいたら、この人たちの仲間になれるかもしれない。

次は、あたしにもコーンフレークが向けられた。

彼の茶色い瞳は気持ちよさそうに潤んでいて、明らかに酔っている。

私と目が合っているのに、あたしを見ていないみたい。

お望みどおりコーンフレークを食べようとうすく口を開けたけど、いざ食べるとなると戸惑った。

鼻先で揺れている一粒のコーンフレークは、私が今まで食べていたものとは違う。

彼女がついばんでいたものとも違う。

だって、あたしはこのコーンフレークを持った外国人とは、知り合いでもなんでもないのだ。

餌だ。

半開きの口のまま、喉だけで唾を飲んだ。

自分が段々戸惑い顔になっていくのが分かる。

あんまり食べたくない。

食べてしまうと、何かが始まってしまいそうで怖い。

ぐっと力を入れて背伸びして、顔を傾け、彼のつまんでいる秋色のコーンフレークを前歯で取った。

舌に、乾いた親指の爪が触れる。

傾いた顔のままで男の瞳を見たら、その瞳の色で言葉を超えて分かった。


「わあっ、ごめんごめん!」
 
大声で女の人に謝られ、びっくりした私は歯に挟んでいたコーンフレークを落とした。

彼女は困って笑いながら言った。

「ごめんね、こんなことさせて」

身体が、ぼっと熱くなる。

もしかして今、あたし、みっともなかったんだ。

謝られるほどに。

おふざけには似合わない、切羽詰まった顔になりすぎていたのかもしれない。

そのとき、知りもしないはずなのに身体の奥底から言葉が出てきた。

「相変わらず、ミサトは酔っ払うと全然ダメね。そんなんだと加持さん他の誰かに取られちゃうわよ?あたしみたいに」

きょとんとする、葛城ミサトと加持リョウジ。

あたしは何を言ってるんだろう?

どうして初対面の二人の名前を知っているの?

刹那の瞬間に現れたのは様々な言葉。

でも、実際にこの身体で体験したわけじゃないからすぐに通過して消え去ってしまう、わ

気まずい沈黙を消すように、彼女は軽快にしゃべり出す。

「あのね、私たち、この街に撮影のために来たの。あなたの街の市役所、重要文化財になった洋館でしょ? その前で撮る予定なんだ。この暑いのに、雑誌の発売時期のせいで秋服着なくちゃいけないから、汗かいて大変。それで、……そう、そんな感じ」
 
ミサトは、加持リョウジと目を合わせて肩をすくめた。

「その、アスカくんとは以前どこかであったかな?」

「夢の中であったことがある………と思う。あまりに荒唐無稽な夢だけどね。ミサトも加持さんもそうなんじゃない?」

こうして、この日、あたし式波・アスカ・ラングレーと葛城ミサト、加持リョウジはエヴァンゲリオンなる夢ついて自己紹介をしながら談議を交わしたのだった。

二人と会ったあの夏の日と同じように赤ジャージ服でカフェを訪れている。

そして、また砂のこびりついた運動靴で、床を汚す。

店内は涼しく、汗はすぐに冷たいしずくとなって首を伝う。

内装や商品の配置はほとんど変わっていなくて、奥に進んでいく。

「この店にいたミサトとガラス越しに目が合ったんだ」

カフェといってもそれほど独立していなくて、何枚かのウィンドウで仕切られているだけなので、オーダーをしなくても、それほど不自然じゃなく中に忍び込めた。

あたしはウィンドウの手前にあるテーブルの椅子を触った。

「多分この椅子にミサトが座ってたと思う。でも記憶が曖昧だから間違ってるかもしれない。このテーブルだったことは確かだけれど。」

「じゃあ、もしかしたらこっちの椅子かもしれないんだね?」

相田は同じテーブルにあったもう一脚の椅子を眺めた。

「うん、でもその椅子には多分連れが座ってたはず」

「え、ミサトに連れがいたの?」

「うん。カメラマンの男だったんだけど、ミサトと二人でコーンフレークを食べさせ合ったりして、いちゃついてた。恋人じゃないかな、あれ」

相田の顔が途端に渋る。

「恋人か、ファンとしては痛烈な響き。いや、でも、おれは受け入れるよ。おれは葛城ミサトに彼氏がいてもいい派なんだ、だって彼女もう二七歳だし。ネットとか見てると、それすら嫌なファンもいるみたいだけど、そこは、譲らなきゃ……。」

両手で長い前髪を寄せ集めて目を隠すような仕草をしながら呟いている。

そしておもむろに鞄を開けたかと思うと、カメラを取り出し、テーブルや椅子の写真を撮り始めた。

レジにいる店員がフラッシュの光に気づいて、いぶかしそうにこちらを見ている。

コーンフレークを朝ごはんにしていたあたしと、カフェの椅子を激写している相田とだったら、どっちの方がより怪しくて迷惑だろうか。

負けず嫌いのあたしだけれど、この勝負には勝ちたくない。

相田はせわしなく移動し、あらゆる角度からテーブルを撮っている。

横に黙って突っ立っているあたしまで怪しく見られてしまいそうなので、先にカフェを出て外で待っていたら、近づいてきた店員に注意されている相田がウィンドウ越しに見えて、ちょっと笑った。

コーンフレークを盛った小皿は昼の光を受けておいしそうに輝いていたが、食べたいとは思わない。

「ここで、二人とどんな話をしたの?」

「だから今日撮影のためにこの街へ来たとか……」

相田は社会見学に来た小学生みたいに、私の言うことを何もかもメモしていく。

「あと、ミサト、あたしの脚を見て、速く走れそうだね、って言った」

「ああ、だから陸上部なんだ」

さらっと見当違いなことを言われて、なぜか動揺した。

「違う、全然関係ない。あたしはあんたとは違うよ」

こんな、すぐに忘れ去られるような会話でむきになる必要はないのに、ミサトの顔が脳裏に浮かんで、否定せずにはいられなくなる。

「あたしは、自分で走りたいと思ったから、走ってるの」

カフェの写真を撮り終わって、ようやく終了した。