そうして現在。

相田の家の玄関正面の襖はまた閉まっていたが、襖の奥からはテレビの音が聞こえ、人の気配がした。

家の人がいるんだ。

しかし、相田は、襖を開けず、さっさと内庭に通じる廊下を歩き始める。

あたしも黙って、足をしのばせて彼の後ろに続く。 
挨拶もしないなんて礼儀知らずなのは分かっているけれど、あんな離れ部屋にこれから二人でこもるんだから、挨拶はしにくい。

相田は自分の部屋に入るなりクーラーをつけ、そして、前と同じようにすぐに制服から普段着に着替えた。

「一人暮らしみたいな部屋よね。テレビに、冷蔵庫まであるし」

「いちいち一階まで降りるのがめんどくさいんだ。特に冬とか、サンダル履いて庭に出る時とか寒さに我慢できない。できればトイレもつけたいくらい」

ガーゼみたいな生地のくたびれたシャツを羽織り、ボタンをとめながら彼が答える。

「にしても、冷蔵庫までいる?」

「夜中に、手元に水気のあるものがないと不安になるから」

あたしのママではこんなのきっと認められない。

こういうのは自立とは違うんじゃないの? 

でも相田はなんだか得意げだ。

「洗濯物も自分で干すし」

窓を開けると、部屋に差し込もうとする陽光をすべて遮ってしまうほどの量の洗濯物が、風に揺れていた。

長い時間干し過ぎたのか、ひからびて変な形のまま固まっているTシャツ、からし色のパジャマ、どんよりと吊り下げられている太いGパン、そして襞のように何枚も重なってはためいている白いバスタオル。

窓の外側にあるこのもう一つのカーテンがこの部屋の薄暗さの原因だったんだ。

「洗濯物のなる木」

そう紹介された物干しには、確かに洗濯物がたわわに実っている。

「洗濯物は着たい時になったら直接ここからもぐことにしている。わざわざ畳んだりしないんだ。合理的だろ?」

洗濯ばさみで留めてあるタオルをブチンと勢いよくもぎ取り、相田は私をうかがい見る。

でもなんの反応も示せなくて、物干し竿をただ見つめた。

ふと洗濯物の襞をめくってみると、外から、夕陽の黄色い光の筋が部屋に差し込んだ。

「夕暮れが始まってる。分かんなかった……」

ここは時間を忘れさせるタイムカプセルのような部屋。

あたしもここにずっといたら、この部屋の主のように、前髪が伸びすぎているのも気づかずに時を重ねるかもしれない。

「あ、葛城ミサトのラジオが始まる時間だ。ごめん、聴く」

相田は素早い動きで押入れからCDラジカセを出し、銀色のアンテナを限界まで長く伸ばし、それから馴れた手つきでぴたっと45度くらいの位置に傾けた。

そしてCDラジカセの前にこちらに背を向けて座り、イヤホンをつけた。

ラジオ。

私を放ったらかしにして、一人で聴くつもりらしい。

幼稚園の頃とか、みんなで遊んでいても、一人だけで隠しながらお菓子を食べていたり、友達に回さずにゲーム機で一人こっそり遊ぶような子がいたけれど、あれみたい。

相田の社交は幼稚園時代くらいで止まっているのかもしれない。

ラジオに向き合って座った彼は、やがて少しも動かなくなり、部屋はしんとなった。

何もすることがなくなった私の目は、自然とアレに吸い寄せられていく。

薄暗がりにあるにもかからず、あの異様な存在感。

脈打っているこの部屋の心臓、相田のファンシーケース。

蓋を開けると、やはり前と同じふくよかな甘い匂いが香り、殺風景なこの部屋には似ても似つかない可憐な世界がケースを中心にして広がっていく。

匂いが伝わったのか、相田が振り向いた。

「何してるの?」

「いや、暇で……」

「そう」

相田がまたラジオに向き直ったのを確認してから、もう一度振り向かせてしまわないよう、あまり音をたてずに中のアイテムを掘り出すと、小さな青い小箱が出てきた。

小箱の中には、それぞれ違う種類の、しかし皆一様に高級そうな香水が三瓶入っている。

このファンシーケースの匂いの元は、これだったのか。 

『夢』のと同じ香水を買い集めたのだろう。

香水にはそれぞれ違う年代が書かれた小さなシールが貼ってある。

香水の匂いでは隠しきれない暗い情熱が、ケースを湿らせている。

大分昔の年代から揃えてある膨大な量のサバイバル雑誌。 

Tシャツ、靴、お菓子、アクセサリーや携帯のストラップ、本、漫画、サイン入りのバンダナ、いろんな細々したものが一つ一つ丁寧に袋詰めされている。

きっとこのどれもが『夢』に関連しているものなんだろう。

あまり触ると怒られそう、そっと元の位置に戻す。

年季の入ったファイルまであった。

なんだか切ない。

分厚い青いファイルには、ワープロできちんと活字にされた、『夢』に出てきた建物や地名、組織団体の詳細なプロフィールの紙、記事の切抜きなどが大量に挟んである。

プロフィールには組織の発足年月日はもちろん、所属する職員の氏名や生年月日、行きつけの店、さらに実家の住所、手書きで描かれた部屋の間取り図などが、何枚にもわたって書き連ねられている。

情報化社会って怖い。

でも、やっぱりというか、当然というか、これだけ情報が揃っているのに、肝心な所が抜け落ちている。

ジグソーパズルでいうと、一番大切な部分のパーツがない状態。

青いファイルがコレクションのファイルの最後だったので、掘り出していった物をまた詰め直そうとしてケースを覗きこむと、底に小さな紙が貼りついているのを見つけた。

今まで上に載っていた物に押し潰されて皺々になっている、赤茶けた紙きれだ。

ファイルから抜け落ちて、気づかれずに放っておかれたのかもしれない。

めくって、裏を見た。

その途端、筆圧の強いボールペンに荒く黒く塗りつぶされていくように息苦しくなった。

「これは、ムリがあるわね……」

無理があった。

あたしの顔写真に、あたしの本当の身体とは似ても似つかないだろう、まだ成長しきっていない少女の裸が、指紋のついたセロテープでつぎはぎしてある。

紙のせいで肌の色も質も全然違うし、遠近の釣り合いも取れていない。

私の顔写真がアップすぎて、少女のか細い肩の上を転げ落ちてしまいそうだ。

そして何よりあたしの顔と少女の身体のアンバランスさが、人面犬みたいに醜い。

酸っぱい。

嫌悪と同時になんともいえない感覚が襲ってくる。

プールの水の、塩素のにおい。

夏、水泳の時間が終わり、熱気むんむんの狭い更衣室でクラスの女子たちと一緒に着替える。

周りの生徒に裸を見られないように、筒形の水泳用バスタオルを頭だけ出してすっぽりとかぶる。

水泳用バスタオルにはタオルを筒形の状態で保てるようなボタンがついている上、ずり落ちないように上の口にゴムがついているから、普通のバスタオルを身体に巻いて着替えるよりもずっと、身体を隠せる率があがる。

更衣室の高窓から射す陽を浴びながら、私は巨大なてるてる坊主になり、でも周りの女子たちも皆てるてる坊主なので、別に恥ずかしさは感じない。

で、濡れた水着はうまく身体をよじりさえすれば、てるてる坊主のままでもなんとか脱げるけれど、パンツを穿く時にはバスタオルの中を覗きこまないと、パンツの二つの穴に足が通らない。

他の女子たちには見えないように、バスタオルのゴムの部分をこそこそと覗きこむと、さっきまで小さな更衣室だったバスタオルの中は、はちきれそうなほどHな覗き小屋に変わる。

自分の生温かい息で湿っていくバスタオルの世界の中で、自分にだけ見えている毛の生えた股の間。

私のつぎはぎ写真を見ていたら、あれを見ている時と同じ、身体の力が抜けてふやけていくような、いやらしい気持ちが、七色に光る油のように身体の奥に溜まっていった。

鉄の味のするフォークを舐めた時のような悪寒が背中を走っているのに、見つめてしまう。

私の右手の親指と人差し指は、自身のつぎはぎを汚いもののようにつまみながらも、しっかりつまんで放そうとはしない。

結局つぎはぎ写真だけは元に戻さずに、荒らしてしまったファンシーケースの中身を手早く整えてから蓋を閉めた。

力いっぱい押すと、ケースはまたスムーズに机の下に戻った。

つぎはぎ写真を失ったまま。

指でつまんでいる稚拙な写真を眺める。

これは、相田がいつ創った『作品』なんだろう?

ケースの底にゴミのように貼り付いたまま忘れられていたことから考えるかぎり、かなり初期の作品の気がする。

『夢』への想いの原型が剥き出しになっているのが、この顔はあたし、身体は少女の写真なんじゃないだろうか。

相田の猫背の後ろ姿を直視できない。

クラスメイトの健康的な肉体を、よくこれだけ卑猥な目で見られるわね?

心の中で小さく嘲ってみたら、興奮した。

これだけ健康的に輝いているものをここまで貶めてしまえるのはすごい。

多分これを作った相田は、式波・アスカ・ラングレーを貶めているなんてさらさら思っていないと思うけれど。

脆いつぎはぎ部分が壊れてしまわないように、そっと、写真をランニングパンツの尻ポケットに入れた。

相田は初めと変わらない体勢で一心にラジオを聴いている。

英語のリスニングテストを受けているかのような集中力で、私が近寄っても気づかない。

なぜかイヤホンを片っぽの耳にしか突っ込んでいなかった。

もう片方のイヤホンは肩に垂れ下がっている。

いつの間にかあたしは立ち上がっていて、彼を見下ろしていた。

彼の後ろ頸を、肌触りだけはよさそうな白いシャツの襟が囲んでいる。

洗濯しているんだろうけれど、着古して、襟ぐりの内側が垢で汚れて茶色くなっていた。

ずっと見つめていると、また生乾きの腫れぼったい気持ちが膨れ上がった。

「なんで片耳だけでラジオを聴いているの?」

振り向いた顔は、至福の時間を邪魔されて迷惑そうだった。

発見。

相田って迷惑そうな表情がすごく似合う。

眉のひそめ方が上品、片眉が綺麗につり上がっている、そして、あたしを人間とも思っていないような冷たい目。

「この方が耳元で囁かれてる感じがするから」

そう言って、またラジオに向き直る。

ぞくっときた。

プールな気分は収まるどころか、触るだけで痛い赤いにきびのように、微熱を持って膨らむ。

また葛城ミサトの声の世界に戻る背中を真上から見下ろしていると、息が熱くなってきた。

この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。

痛がる相田を見たい。

いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬、目が眩んだ。

瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった。

相田は前にのめり、イヤホンは引っぱられCDデッキから外れて、ラジオの曲が部屋中に大音量で鳴り響いた。

おしゃれな雑貨屋なんかで流れていそうなボサノバ調の曲に全然合っていない驚いた瞳で、彼は息をつめて私を見つめている。

「ごめん、強く……叩きすぎた。軽く肩を叩こうとしたんだけど。もう帰るって、言いたくて」

ドアをノックするような手の動きを加えながら、嘘がすらすら口から出てきた。

「ほぼパンチくらいの威力だったよ、今の」

私のニューマキシシングルをお送りしましたー、恥ずかしいな、いかがでしたかー?と、ミサトの能天気な声が響く。

「あー、声が同じ。やっぱり私が『夢』とカフェで会った人は葛城ミサトに間違いないわね」

話をそらすために、わざと明るい声を作って言った。

「すごいよな、『夢』で聞いた声をハッキリて覚えているなんて」

背中の蹴られた部分をさすりながら、相田はあたしを〝憧れの職業についている大人〟を見るような目で見る。

蹴ったのがばれませんように。

でも、もし青痣になっていたとしても、背中だから、まず気づくことはないだろう。

彼の背中で人知れず青く内出血している痣を想像すると愛しくって、さらに指で押してみたくなった。

乱暴な欲望はとどまらない。

「そうだ。あたし、帰ろうとしてたんだっけ。こんな夕方まで体操服着て、何やってんだろ。そんじゃね」

歩こうとしたら、膝から下の力が抜けて、スローモーションのような尻もちをつき、素早く相田を見たが、彼は既にイヤホンを戻し、また葛城ミサトと二人きりの世界に旅立っていた。

まだテレビの音がしている居間を避けるようにして長い廊下を通り、靴をひっかけて玄関を飛び出した。

外は既に薄暗くなっており、気温も下がっていて、なんだか落ち着かない。

外からでは、相田の部屋のある二階部分は、道路に面している一階の平屋の家とは、別の家みたいに見えた。

洗濯物だらけの窓も見えた。

あの向こうに、一番大切な箱を荒らされ、盗まれ、その上蹴られた男の子がいる。

と思うと、なんだかたまらない。

半開きの口からつゆんと熱い唾が溢れて、あわてて上向いて喉だけひくつかせて、どうにか飲み込んだ。

帰り道、コンビニに寄って、この前の相田の読んでいたファッション雑誌を立ち読みした。

でもページに並ぶモデルは、どれもバタくさい鼻筋のしっかり通っている系統の美人ばかりで、見ているうちに、どの人も葛城ミサトのような気がしてくる。

あたしが夢で会ったのはカフェの葛城ミサトじゃないかもしれない。

ページをめくっていくと、白黒の読み物ページにミサトの短いコラムが載っていた。

コラムの横には50円切手大のミサトの写真。

初めての方でも手軽に申し込める金融機関、を紹介する受付嬢風に微笑んでいる。

夢の記憶と重ね合わせようとしたけれど、ぼやっとしてうまくいかなかった。

仕方なく横のコラムに目を通した。

『こんばんは、ミサトです。これを書いている今は、夜なんだけれど、窓を開けたら夜風と一緒に、近くの家のお風呂の匂いが部屋にすべりこんできたのよ』

『シャボンのいい匂いと、遠くで聞こえるかすかなシャワーの音が、とても心地いい。自然の景色を自分の庭の一部に見立てちゃう〝借景〟っていうのがあるけど、これは〝借香〟かなぁ?ラッキー』

『さて、みなさんは毎日ちゃんと眠れていますか? 私はある悩みごとのせいで、つい最近まで不眠症だったんです』

『悩みごととは、自分の声のこと。低いのよね、むやみに。イメージしていた高音が、レコーディング中にどうしても出なくて、それをくよくよ気にしていたら、夜寝つけなくなっちゃって。小さな灯りが気になったり、何回もトイレに行きたくなったりする。みなさんもあるよね? そういうこと。でも! 解決策を見つけました』

『それは……、かくれてねむる』

『部屋の電気を消して、でもわざと机の上の電気スタンドだけをつけっぱなしにするんだ。そして、その電気スタンドの光からかくれるように、羽根ぶとんを頭からかぶって、かくれんぼしてるような気分で、部屋のすみっこで小さく丸まるの』

『そうしたら、ひそやかなワクワクが身体を満たして、幸せな気分になって、やがて眠くなる……Zz 眠れない夜が来たら、試してみてね』

胸がひりひりする。

懐かしいこの痛み、私が夢で会ったのは間違いなくこの葛城ミサトだ。

手が震えるくらい重いファッション雑誌を、またコンビニの棚に戻した。

相田はこういう〝夢や雑誌から与えられる葛城ミサトの情報〟だけを集めているんだ。

実際の、葛城ミサトを知らずに。



夏休みが近づくにつれ、暑い教室で、男子は半袖をまくり上げ靴に靴下まで脱いで裸足で、女子は下敷きでスカートの中をあおぎながら、億劫そうに授業を受けるようになった。

でも昼ごはんの時間になるといつも通り華やぐ。

どのグループも仲間のギャグを笑い飛ばして昼ごはんを食べているから、騒々しさは廊下まで漏れている。

あたしは自分の机から椅子を持ってきて、窓際の白い木綿のカーテンの内側に入って椅子を置き、窓を開けた。

風が前髪を揺らし、上に広がる空は白く、下に広がる運動場からはバレーボールで遊んでいる男子グループの歓声が聞こえてきて、のんびりといい気持ち。

つい最近までは運動場で遊ぶ生徒たちが多くて、もっと歓声が聞こえていたのだけれど、ここ二、三日の暑さのせいで人がめっきり減った。

ヒカリが鈴原と一緒に弁当を食べたいとすまなそうに言い出し、アスカも一緒にどう?と言われた。

けれどヒカリの、心からすまなそうにしている顔を見たから、なんだか違和感があって断ってしまい、一人で弁当を食べなければならなくなった。

でも自分の席で一人で食べているとクラスのみんなの視線がつらい。

だから、いかにも自分から孤独を選んだ、というふうに見えるように、こうやって窓際で食べるのが習慣になりつつある。

運動靴を爪先にぶらつかせながら、私が一人で食べてるとは思っていないお母さんが作ってくれた色とりどりのおかずをつまむ。

カーテンの外側の教室は騒がしいけれど、ここ、カーテンの内側では、私のプラスチックの箸が弁当箱に当たる、かちゃかちゃという幼稚な音だけが響く。

ふと背後に気配を感じて振り向くと、クラスの男子がカーテンの裾をまくり、小さいペットボトルに入ったお茶を飲みつつ私を見ていた。

彼はペットボトルから口を離し、濡れた唇のままあたしに言った。

「教室のクーラー、今日から解禁なんだ。で、窓開けられると、クーラーで冷やした教室が台無しになるんだよ。閉めてもらっていい?」

相田とは全然違う、低くてゆっくりな、ふてぶてしい声。

無言で頷くと、男子は素早くまたカーテンを引いた。

すぐに言われた通りに窓を閉め、鍵までかける。

居場所がまたなくなってしまった。

これからは自分の机で独りごはんに耐える日々が続くんだ。

でも考えてみたらもうすぐ夏休みだから学校に来なくてもよくなる。

でも、もっとよく考えたら夏休み後の二学期にも同じ日々が続くだけだ。

赤いチェックの弁当包みで、小さくて二段重ねの、猫の絵柄がついた桜色の弁当箱を震える指で包む。

あたしの持ち物の中では唯一弁当関連の小物だけが女の子らしい。

誰も見ていないけれど急に恥ずかしくなって、弁当箱を運動場に放り投げたくなった。
 
バカシンジと相田はいつも、昼ごはんの時間になると教室から出て行く。

どこに行っているのか分からないけれど、昼休みが終わる頃になるとまた戻ってくる。

今もやっぱり教室にはいない。

彼とは、一緒に『夢の場所探索』に行ったことなんかまるでなかったかのように、教室ではお互いにおはようの挨拶さえしない。

教室でのあたしと彼の間には、なぜか、同じ極の磁石が反発し合っているような距離がある。

授業の合間の十分休み、クラスのみんなが友達としゃべったりしているなか、には相田いつも、背骨が弱っているみたいに机に片頬と片耳をべったりくっつけて寝ている。

すると相田はどれだけ疲れていて眠くても、なぜかその格好だけはしたくなくなる。

しようがないので、顔の前でいただきますをするみたいに両の手を合わせ、合わせた二つの親指の上に顎を置き、二つの人差し指に鼻と口を軽くつけて目を閉じる格好で、十分間をやり過ごす。

そのくせ授業中になると、あたしは頬杖をついて、教壇のすぐ前の席に座っている相田を見つめている。

背中を蹴った時のあの足裏の感触を反芻しながら。

すると身体が熱くなってくる。

でも目だけは冷静に、彼を〝観察〟している。

目つきと身体の温度が相反している〝冷えのぼせ〟状態だ。

こんな目つきで男子を見ることに、なんとなく罪悪感を感じて、相田が少しでも動くとすぐ目をそらす。

私の学校での鮮やかな感情といえば、この〝冷えのぼせ〟だけで、授業も教室の喧騒も灰色にくすんで、家に帰っても学校で何があったかよく思い出せない。

たまった緊張のせいで背骨がきしむような痛みだけが残っている。

学校にいると早く帰りたくて仕方がないのに、家にいると学校のことばかり考えてしまう毎日が続く。

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、そろそろとカーテンの外に出ると教室にいるのはあたし一人になっていた。


さびしさは鳴る。

耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で折る。

細長く、細長く。

紙を折る音は、孤独の音を消してくれる。

机の上にあるプリントの山にに、また一つ、細長く折った紙を載せた。

うずたかく積み挙げたプリントの山、私の孤独な時間が凝縮された山。

「お見舞い」をすることにした。

相田の家に行く道はもう覚えていた。

彼と一緒に歩いていた時は気づかなかったけれど、この地域では、リフォームや新築が流行っているのか、工事中の家が多い。

分譲中の赤い旗がはためいている新築の家の白い壁が、日光を照り返して眩しい。

大きな工事の音がすると思ったら、マンションも建設中だった。

前を通ると、マンションを取り囲んでいる防音フェンスの前面に、赤レンガに絡まった蔦の絵が描かれているフィルムが貼られている。

そのフィルムは町の外観を損なわぬように、との配慮で貼られたのかもしれないけど、蔦が嘘っぽい緑色で、まるで逆効果だ。

相田の家の両隣も新築で、灰色の細長い洒脱な家に挟まれた青い瓦屋根の彼の家。

呼び鈴を押すと、しばらくしてから玄関の引き戸が開けられ、中からおばさんが顔を覗かせた。

「ケンスケのお友達?」

「はい。お見舞いに来たんですけど……」

相田のお母さんと思われるおばさんは、化粧っ気のない、ちょっと浅黒い肌をした人だった。

相田と違って明るい表情、愛想のいい笑顔をしている。

「あらあら、ありがとう。あがってちょうだい。高校のお友達?」

「はい」

おばさんの後ろでは、今まで相田が開けたことのなかった襖が開いていて、その先には、陽のさんさんと当たっている、こぢんまりとした居間がぽっかりとあった。

大きいテレビはつけっ放しになっていて、昼番組の笑い声を響かせており、冬はこたつとして使われていそうな座卓の上には、湯呑みと洗濯ばさみで留められたお菓子の袋が置いてある。

座椅子には太った猫がいて、私を見ても驚かず、のほほんと赤いタータンチェックの座布団の上に寝そべっている。

この家の本来の姿を、初めて見た気がした。

古くてどことなく陰気な家ではない、昔なつかし、といったほのぼのした言葉の似合う家だったのだ。

「きっとケンスケも喜ぶと思うわ。今あの子、二階の部屋にいるから、一緒に行きましょ。この家の造りは複雑でね、簡単に二階には行けないのよ」

「一人で大丈夫です」

おばさんは笑顔をやめて、私の顔を見た。

「そうか。あんた、この前うちに来てた人だね」

「はい」

口の両端にくっきりした皺のあるおばさんは、真面目な顔になるとなんだか迫力があり、たじたじとしてしまう。

「ねえ、今度来る時は、今日みたいに、一言私に声かけてね。知らないうちに知らない人が出入りするのは、あんただって嫌でしょう」

一瞬つまった後、すみませんでした、とだけ言った。

おばさんの言っていることは正しい。

でも叱られ慣れていない私はなかなか素直に反省できない。

だって私は相田のやり方に従っただけで、この家はこういう家なんだと思っていただけなのに。

階段を一人で上がって、二階の襖を開けると、にな川は相変わらず薄暗い部屋の中央で、布団の上に新聞を広げて、うつぶせになって読んでいた。

「えっ、式波?!なんで来たの?!」

「お見舞いに来たのよ」

「見舞い?たかが風邪で?すごいな、ありがとう」

お風呂に入っていないような(実際風邪だから入ってないんだろうけど)、すすけた顔で洟をすすっている相田を見て、気が抜けた。

「クラスの子たちが登校拒否って噂してたから、本当なのかな、と思って」

「そんな、まだ四日しか休んでないのに。ただの風邪だよ。チケットぴあに徹夜で並んだせいだ」

相田は半身を起こした。

いつかベランダに干していた、細い灰色の縞が入っている、からし色のパジャマを着ていた。

「それ何?」

「お見舞いの、桃」

うちの冷蔵庫から盗んできた桃の二個入りパックを、畳の上に置いた。

「ここの部屋に包丁ってある?」

「ない。でもかなり熟してるから、これなら手で剥けそうだ」

相田が冷蔵庫を開けると、がらんとした冷蔵庫内を埋めるかのように、一番下の段に食器が積み重ねられていた。

「今フォークないや」

と言って、二枚の皿と箸を取り出した。

ミネラルウォーターを取ると、慎重に傾けて一筋ずつ水を流して手をすすいだ後、相田は新聞紙の上で、手で桃の皮を剥き始めた。

「この新聞、読めなくなっちゃうよ」

桃の汁で汚れていく新聞はスポーツ新聞で、紙面には、けばけばしい青色の見出し文字で〝○○離婚〟、その下にとても小さい文字で〝へ〟、と書いてある。

「これは読んでないから、いいんだ」

相田が濡れた手で新聞を畳むと、その下からはおなじみのファッション誌が出てきた。

三冊とも、全部葛城ミサトのページが開かれている。

「階段上がってくる音が聞こえたから、てっきり母さんが入ってくるんだと思って。これ読んでるの見られると、気持ち悪がられるんだ」

「私、さっきおばさんに怒られたよ。家来る時は挨拶くらいしろって」

「母さん、気づいてたの? 何も言わないから気づいてないのかと思ってた」

自分の子より、他人の子の方が叱りやすいんだろうか。

「おれの親、もう、おっかなびっくりなんだ。おれみたいな内にこもる人種に接したことないから」

親ともうまくいっていないなんて、笑える。

不良とはまた違うタイプの最低さだ。

まだ私の方がまし、私はママとパパには普通に話すし……。

枕の傍らに置いてあるお茶の入ったグラスに妙な物を発見した。

「氷の中にアオムシ入ってる」

「違うよ、それはハーブ。凍ったら縮んだんだ。これの通りやったんだけどなー、見本の写真みたいにはならなかった」

広げられた雑誌には〝ミサトレシピ・ハーブ氷の作り方〟とあった。横にはエプロン姿のミサトの写真、おなじみの笑顔でこっちを見ている。

雑誌を熱心に見ているにな川の口から、しゃぶりかけの飴が、くたっとしたタオルケットの上に落ちた。

「ん、飴が」

相田の指が飴をつまみ上げる。

べとついたオレンジ色の三角飴には、タオルケットの毛が汚くからみついている。

心がかすかすになっていくような急激なむなしさにおそわれた。

「気持ち悪いよ」

「何が?」

「夢だミサトだって、しじゅう言ってるのは」

鞄から財布を出し、大切に保管していたつぎはぎ写真を、畳の上に置いた。

相田は眼鏡のない顔を近づけ写真を凝視し、次の瞬間、顔を硬直させた。

「………失くしたと思ってたのに。そうか、これ。式波が持ってたのか………」

「いちおう、聞くけど、あたしの裸を再現しようとしたのは夢の中で見たのを忘れないため?」

「あ、ああ、………ごめん。その、寝ぼけているときに、とにかく、大切な記憶を忘れたくないって思って………」

ちぐはぐな反応。

こんな物を見られて恥ずかしがりもしない、盗った私を怒りもしない。

ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップブックに挟む彼を見て、ぞっとした。

まるであたしなんか存在しないみたいに、夢中になって写真を眺めて、もうこっちの世界からいなくなっている。

こんなことを繰り返していたら、いつかこっちに戻ってこられなくなるんじゃないか。

思わず彼の腕を掴んだ。

「相田、夢とミサト以外のことについて話そう」

「へ?例えばどんな?」

「なんだろう、でも、なんでもいいから」

「……おもしろいテレビとか?」

「……あー、でも私、この頃は朝学校に行く前のニュースしか見てないから、それは。ちょっと」

「じゃ、好きな朝のニュース番組についてでも話す?」

「えぇ? おもしろいかな、それ」

「じゃあ、やめよう」

二人で黙々と、話すことを考えた。

私はすぐに一つ思いついたけれど、なかなか言い出せなくて、皿の上にまるまる一個載っている桃を箸でいじった。

桃は熟々で、箸に少し力を込めただけで二つに割れ、白い果汁が皿の上を流れる。

「クラスの人たちどう思う?」

桃を黒塗りの箸で細かく割りながら、でも一口も食べずに、何気なく言ってみた。

「レベル低くない?」

相田は私を見つめたまま一瞬止まったが、やがてすべて了解したというふうに頷き、

「ああそういえば、式波、生物の班決めの時に取り残されてたもんな」

〝とり残されてた〟という響きが胸にぐんと迫ってきて、慌てた。

友達とかに無頓着で、というか夢とミサト以外の現実に無頓着だから、絶望的な言葉をさらっと口にすることができるんだ。

「そうじゃなくて、なんていうの、私って、あんまりクラスメイトとしゃべらないけれど、それは〝人見知りをしてる〟んじゃなくて、〝人を選んでる〟んだよね。」

「うんうん」

「で、私、人間の趣味いい方だから、幼稚な人としゃべるのはつらい」

「〝人間の趣味がいい〟って、最高に悪趣味じゃないか?」

鼻声で屈託なく言われて、むっとなる。

「でもおれ分かるな、そういうの。というか、そういうことを言ってしまう気持ちが分かる。ような気がする」

同意は同意でも、私の求めていたものとは違う。

けれど、彼の言葉に不思議に心が落ち着いた。

小さい桃のかけらを口に含むと、生ぬるい、舌を包み込むような甘さが口に広がった。

「痛っ」

桃を食べた相田が、顔をしかめた。

「どうしたの」

「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった」

鼻声で屈託なく言われて、むっとなる。

「でもおれ分かるな、そういうの。というか、そういうことを言ってしまう気持ちが分かる。ような気がする」

同意は同意でも、私の求めていたものとは違う。

けれど、彼の言葉に不思議に心が落ち着いた。

小さい桃のかけらを口に含むと、生ぬるい、舌を包み込むような甘さが口に広がった。

「痛っ」

桃を食べた相田が、顔をしかめた。

「どうしたの」

「桃の汁が唇に染みる。乾燥している唇の皮を剥いたんだった」

鼻がつまって口呼吸をしているせいか、相田の唇は乾燥してひび割れていた。

さぞかし、染みるんだろう。

唇に親指をあてて眉をしかめている彼を見ていたら、反射的に口から言葉がこぼれた。

「うそ、やった。さわりたいなめたい」

ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。

血の味がする。

相田がさっと顔を引いた。

「痛い。何?今の」

怪訝な表情をして、親指で唇を拭く。

さらにパジャマの袖でも拭いている。

その動作を見ているうちに、やっと自分のしたことが飲み込めてきた。

顔は強張り、全身の血がさーっと下がっていく。

どんな言い訳も思いつかない。

「式波の考えてることって全然分からないけど、時々おれを見る目つきがおかしくなるな。今もそうだったけど」

「へっ?」

「おれに何か期待してる目になる。おれがミサトのラジオ聴いてた時とか、体育館で隣で靴履いてた時とか、冷たい、ケイベツの目つきでこっち見てる」

違う、ケイベツじゃない、もっと熱いかたまりが胸につかえて息苦しくなって、あたしはそういう目になるんだ。

というか、相田って、目がどうとか、あたしのこと見ていたなんて。

夢とミサトしか見ていないと思ってたのに。

「でも別に嫌じゃないよ。あっ、それよりミサトのライヴに一緒に行かないか。チケット代出すから」

いきなり思い出したように言う。

この目の前の男の子が、何を考えているのかよく分からない。

「チケット五枚も買ってしまって、余ってるんだ。興味なかったら、いいけど」

「日にちが合ったら行く」

「来週の土曜の夕方、来る?そしたらチケット全部で五枚あるから、式波も友達を一人まで誘っていいよ」

「誘わないよ。有名でもないモデルのイベントに、誰が行きたがるっていうの?」

「でもチケット一枚も余るのもったいないなあ。」

「相田が自分の知り合いをもう一人呼べばいいんじゃないの」

「当てがないよ」

「一人も?」

「一人は、いる。君」

集人力低すぎる。

あたし以下だ。

「しょうがないな。じゃあ、ヒカリを呼ぶ。それでいいでしょ?そもそもなんでチケットを四枚も買っちゃうの」

「お一人様五枚まで買えたんだ。チケットぴあに朝の四時から並んでさ、一枚だけ買って帰るのはもったいなくてさ」

貧乏性なのか何なのか分からない。

「そのせいで風邪を引いちゃったんでしょ。初めてのライヴだからって、はしゃぎすぎだよ」

「そうかも。それになぜか、今から緊張してるし」

やっぱり、いつの間にかミサトの話をしている。

お互いの唇が触れたことはなかったことにされている。

というか、自然に消え去ってしまった。

クッションを指で押しても、柔らかな弾力で、すぐにへこみが消え失せ、また元のなだらかな表面に戻るように、自然に。

「生の葛城ミサトに幻滅してしまうことを恐れてるとか、まさかそんなんじゃないんだけど、なんでか、楽しみより緊張の方が大きいんだ。」

ミサトのことを話す時の相田は、普段のひょろひょろ感じがなく真剣で、そして自分自身に言い聞かせるようにしゃべる。

初めて生の葛城ミサトと向かい合う彼は、どんな顔をするんだろう。



相田の家から戻ると、すぐにヒカリに電話をかけた。

横に椅子があったけれど、座る気になれなかった。

「もしもし洞木です」

「ヒカリ?」

「アスカ?どうしたの?」

「あのさ、来週土曜に、相田の好きなあのモデルのライヴがあるらしくて、そのチケットが余ってるらしいんだけど、三バカと私とヒカリの五人で行かない?」

自分の、畳みかけるようなせかせかした口調が気に食わない。